貧者の一灯ブログ

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貧者の一灯・一考編













※…
「農協の独裁者」と呼ばれる男がいる。その
名は中川泰宏。 中川が1995年から会長を務め
る「JAバンク京都信連」(京都府信用農業協同
組合連合会)の貯金残高は、1兆2567億円に達
する。


副会長を務めるJA共済連(全国共済農業協同
組合連合会)の保有契約高は、なんと227兆円
だ。JA共済連で保険商品を売り歩く農協の職員
数は、18万6000人にのぼる。


京都の農協で27年以上にわたってトップに君
臨しながら、中川泰宏は農協の労働組合潰し
や悪質な地上げに手を染めてきた。2005年に
は「小泉チルドレン」として政界に進出し、
野中広務と骨肉の争いを繰り広げる。





京都駅からJR山陰本線で一駅、京都鉄道
博物館がある梅小路京都西駅から徒歩五分
という「超好立地」に地上げの現場がある。


現場を訪れた二〇二〇年五月、同駅に隣接
した全二〇六室の巨大ホテルが開業に向け
た仕上げの工事を行っていた。


そのホテルの奥に、せり人が行き交う京都市
中央卸売市場が広がる。


市場の一画(本場に隣接するいわゆる場外
市場)が、問題の舞台である。


発端は一四年にさかのぼる。三八一五平方
メートルに及ぶ土地・建物の所有権がJA
京都市から「伊藤土木」なる会社へと移っ
たのだ。


大家が変わったことで、その土地で卸売業を
営んできた二五の事業者の生活は一変した。


理不尽な地上げの実行部隊となったのが伊藤
土木である。


実は、伊藤土木は中川一族のファミリー企業
だ。その登記簿上の代表取締役には中川の長女、
監査役には中川の妻が名を連ねている。


一五年一月に、中川の次男、中川泰國が「伊
藤土木社長」の肩書を名乗って卸売事業者ら
にあいさつにやって来た


(泰國はJA京都〈JA京都市とは別の農協〉
の常務理事を務めている)。


その場で泰國は卸売事業者らに対して、「賃貸
契約は(今まで通りで)変わらない」と話した。


問題の発言はここからだ。


その舌の根の乾かぬうちに「共用の水道は止
める。トイレは撤去する」と言い放ったのだ
った。


呆気に取られる卸売事業者らを残して泰國は
その場を立ち去った。


卸売事業者らが日を改めて設けた「新たな
大家」との意見交換の場には、泰國本人や
その部下が現れることはなかった。





その後、伊藤土木の傍若無人な振る舞いが
相次ぐようになる。


一方的に施設の撤去や封鎖を通告し、期限が
来たら即座に実行する。


卸売事業者が、自費で壁を修繕したいと申し
出ても、取り合ってもらえなかった。


勝手に自費で修繕すると契約違反であるとし
て退去を求められるので、卸売事業者らは
ブルーシートなどによる応急措置でしのぐ
しかなかった。  


卸売事業者らでつくる自治会会長を務める
小林商店代表の小林悟は「応急処置が可能
ならまだましだ。


床が壊れてやむなく閉店した食堂や、トイレ
が遠くなったのがきっかけで廃業した高齢
の経営者もいた。寂しいことだ」と語る。


実際に、共同トイレの閉鎖や水道の止水、
さらには重要な商売道具である大型冷蔵庫
の強制撤去といった嫌がらせにより、事業
者はくしの歯が欠けるように減っていった。


そんなときに、事件は起きた。


後に今回の地上げ手段が裁判所から「違法
認定」を受けるきっかけとなった出来事で
ある。……


※…次回京都の一等地で起こった「ヤバすぎ
る地上げ」…












向かい合った医師からそう言われ、反応でき
なかった。一瞬、問いの真意がわからなかっ
たのだ。  


「個性……と思いますが」


「これは個性ではありません。専門家なら見
まがうことはない。息子さんは自閉症です」  


当の本人は、床に並べた玩具をひたすらいじ
っている。


妻の胸に抱かれた次男がぐずり始めた。


単語が二語文にならず  区役所の保健所
(当時)に呼び出されたのは、長男・洋介
(仮名)の3歳児健診の後、1996年の
冬のことだ。


言葉が遅いこと、単語は多く発するが、い
っこうに二語文になっていかないことが、
通常の発達と違っていることは感じていた。


公園に行っても、他の子と遊ぶことはなく、
すべり台ばかりを何時間も、日が暮れるま
ですべり続けた。  


当時は、「自閉症スペクトラム」という言葉
が、ようやく聞かれ始めた頃。


いくつかあった専門書を読んだが、自閉の特
徴の中には、わが子には当てはまらないこと
も多くあった。


例えば、「視線が合わない」とか。ときおり、
きらめくように言葉を発することもあって、
「障害」はまだ、僕ら夫婦にとって現実の
問題とはなっていなかったのだ。





だから、保健所から呼ばれたときにも、発達
に関して相談をする程度に思っていた。


部屋に入ると、精神科医とだけ名乗った医師
とカウンセラーが並んでいた。


そして、始まってすぐに突然落ちてきたのは、
その医師の言葉だった。


両親のただならぬ気配を感じ取ったのか、ち
ょうど1歳になる次男が泣き始めた。


すると、医師はこう言った。「今に、この子
が追い抜いてしまいますよ」  


心の準備がなかった妻が、泣き始めた。


僕はといえば、なぜか顔は笑っていた。不思
議なことに、笑いが止められなくなっていた。


周りからどう見えているんだろう、おかしな
親と思われるんじゃないか……と思っても、
それは止められなかった。  


後に、「笑い」をテーマに取材をしたとき、
ある大学の先生から教わった。


人は予想を超えた衝撃を受けると、笑うこと
があるという。


「笑うしかない」というのは、そうしなけれ
ば自分を支えられないからなのだろうか。


どんなに引きつった醜い笑みだったとして
も、あの日の僕は。…





千葉の郡部に引っ越すことが決まっていた
僕らに、「(大都市の)ここなら様々な支
援が受けられますが、引っ越した先には何
もありませんよ。


覚悟してください」 という言葉が追い打ち
をかけた。  


まだ泣いている妻と、傍らで上機嫌にぴょ
んぴょん跳びはねている長男を連れて、区
役所からのバスを待った。


バスはなかなか来なかった。


真っ青に晴れ上がった空に風景がこびりつ
いて、まるで油絵だと思った。  


ようやく来たバスで駅に行き、そこで別れ
た。僕はその足で職場へと向かったのだ。


いつもより遅い時間の都心へ向かう列車
はすいていて、僕はぼんやりと座っていた。


特段、悲しいとも、つらいとも思わなか
った。ただ、それまではかわいいだけだっ
た息子とのいろんな思い出や、他人の言葉
や、漠然とした考えが、意識を出たり入っ
たりした。




 


40分ほどたって、職場に最寄りの水天宮
前駅が近づいた。


当時は、そこが地下鉄の終点だった。心の
中は空白に近かった。


だけど、気がつけば、両目からは涙がボロ
ボロと流れ出ていた。


他の乗客が 怪け訝げん な顔でこちらを見
ている。


人はおかしいから笑うのでなければ、悲し
いから泣くのでもない。ただ、あふれ出る
のだと知った。  


医師の厳しい言葉は、現実を見ない若い両
親の目を覚まさせるためだったのだろうか。 


思えば、僕と息子の歴史は、この日、始ま
ったのだ。……


author: (梅崎正直)