貧者の一灯ブログ

マイペースで自己満足のブログを投稿しています。

貧者の一灯・森羅万象















二日前の夜、その日3度目の回診のため病室の
ドアをノックして開けると、東京に嫁いでいる
娘がいた。彼女は身重だった。


彼は時折襲って来る激痛に堪えつつ、苦しい呼
吸の中で娘と話していた。


彼の首にできた腫瘍は気管、食道を圧迫し神経
をも侵していた。


彼は自分の中の苦痛と不安を振り払うように娘
を見つめ、この世で最後になるかもしれない娘
との時間をいとおしんでいるかのようだった。


娘は途切れ途切れのかすれた小さな声しか出せ
ない父親の口に耳をつけるようにして寄り添っ
ていた。


かすかに「幸せになるんだよ」という言葉が聞
こえ、娘が頷いた。そこには他の誰をも寄せ付
けない空気があった。


彼の脳裏には娘が生まれた時、幼稚園の頃マン
ションの廊下から「お父さん、行ってらっしゃ
い」と叫んでいた姿、帰宅すると飛びついてき
て抱き上げた感触、そして嫁いで行った日のま
ぶしいばかりに輝いていた姿などが次々に浮かび、
一つ一つの記憶を大事に、二度と開けることの
ない引き出しの中にしまいこんでいったのだろう。


そして初孫が誕生する喜びと、おそらくその子
供を自らは抱きしめることができない悔しさを
感じ、いま少しの時間の猶予が与えられる奇跡
を祈っていたのだろうか。


翌日、彼の意識が混濁し始めると、彼は宙をつ
かむような動作、何かを抱きかかえるような動
作を繰り返し、かすかに「よしよし」という声
が聞こえた。


身重の娘が訪れていたことを知っていた年輩の
看護師が言った。 「お孫さんを抱っこしておら
れるのでしょうね」


娘は父に訪れる死の影が信じられずに、自分を
ずっと暖かく包んでくれた大きな存在が消え去
ろうとすることが実感できずに、残された時間
にすがるように、父の顔を脳裏に刻み込むように、
見つめていた。


私は面会時間を大幅に過ぎて部屋にいる娘に声
をかけるように看護師から言われ、部屋の前に
立った。


だが垣間見える父娘の姿に、自分とまだ幼い娘
とを重ねて何も言えずにただ彼らの姿を見ていた。


暗い部屋で二人の周りだけがぼんやりと明るく、
空気も時間も止まっているかのようだった。



※…儀式と演出


医師は客観的な姿勢が大事で感情移入は慎むべ
きだという教えがあり、その一方で共感、シン
パシーを持つべきだという教えもある。


現代医療で感情の入る余地は極めて少なく、診断、
治療は高度に機械化された病院で息つぐ間もなく
行われる。


皮肉にも医師がそのなす術を失い、死の世界へ
の流れを押し止められなくなった時に人間同士
として接する場が残されている。


私は結局何も言えず、しばらくして踵を返して
詰所に戻った。


「部屋へ行ったけれど、まあいいじゃないか。
話し込んでいるし、身重だし、もうすぐ帰るよ、
きっと」 私は詰所に戻ると独り言のように、
言い訳するように、その日の準夜(夕方から深
夜までの勤務)のリーダーに言った。


彼女は私を一瞥すると「まあ、仕方ないですね」
と少し呆れたように言った。


このような時の対応は個人個人で異なり、規則
に忠実な看護師からは非難を受けることもある。


その日は比較的私に好意的な看護師でもあり、
それ以上のことは言わなかった。


やがて消灯時間になり廊下の電気が消えてから、
娘は父のいる空間にできるだけいたいような素
振りで、振り返り振り返りゆっくりと病棟から
去っていった。


静まりかえった部屋には不規則な患者の呼吸と
いうより喘ぐ音が、大きく響いている。


この人の50年に満たない人生の終末に自分が立
ち会っていることは、考えてみればなんと不思
議なことであろうか。


心電図の音の間隔が次第に延びてくる。その時
間の延びを私は本能的に察知し、まず対光反射
を確かめるべくライトを瞳孔に当てた。


左右共に散大しかけており、脳活動の終焉を示
した。呼吸、循環中枢は不規則ながらもまだ働
いている。


「ボスミン(強心剤、アドレナリン)の心注、
用意しましょうか」 看護師が私の顔を覗き込
むようにして言った。


心注とは心腔内注射のことで直接心臓の中に強
心剤を注射し、心臓の働きを高めることである。


私は首を横に振った。数日前から家族には何度
も最期の時が近いことを告げ、砂時計の残りが
少ないことを知らせていたので、家族は見送る
準備ができていると感じていた。


家族の様子を今一度見渡し「もう何もせず、そ
っと送ろう」と決めた。


看護師の表情には「何もしないのですか?」と
いうやや非難、不満の色がうかがえた。


癌末期の患者に対して心臓マッサージ、強心剤
の注射等の蘇生術を行うことを我々は「儀式」
と陰で呼んでいた。


なぜそのようなことを行うのか、みんなわかっ
ているのだろうか。その患者に対して何か思い
残し、後悔があるからそのようなことをするの
だろうか。


一秒でも長く心臓を動かすことが使命だと思っ
てするのだろうか。もはや、何も言わなくなっ
た患者と黙って向かい合うことが怖くてするの
だろうか。


家族に一生懸命やったがだめだったと示し、お
互いが最後に納得し合うために行うのだろうか。


その時間は関係している者すべてにとって「凝
縮した濃厚な時」であり、どう演出するかも医
療者の仕事であると思う。


いろいろと処置をして精一杯努力したという思
いを家族と共有するのも一つであり、この場合、
身体や手を動かしているのであまり考えること
はない。


ただただ心臓が完全に停止するまで処置を続け
るのみ。 流れに従う場合、何もしないという
ことに耐えて死にゆく人を見守るエネルギー、
かつ周囲を見渡し残される人への配慮を考える
というエネルギーがいる。…










クリスマスに、世界中で演奏され歌われる聖歌
「きよしこの夜」は、どのようにして生まれた
のでしょうか。



実は、あるアクシデントが幸いに転じて誕生し
たのです。





「きよしこの夜」は、約200年前、オーストリ
アの西、美しいアルプスの山並みに近いチロル
地方、オーベルンドルフというところで作られ
ました。


1818年の12月24日の朝、ヨーゼフ・モール神父
は教会のパイプオルガンが壊れているのを知り
ます。


なんと、ネズミがオルガンのふいごをかじって
いたというのです。


修理するにしても、この地方には雪が深く積も
っており、今日中に修理工が来るのは無理でした。


もはやクリスマス・イブの深夜のミサに使えな
いのは明らかです。 このままでは今年のクリス
マス・イブは寂しいものになってしまう。


毎年楽しみしている村人をがっかさせてしまう。
モール神父は、途方に暮れました。



※…赤ちゃんを祝福した帰り道で


そこへ貧しい農婦に赤ん坊が生まれたから祝福
してほしいとの知らせがありました。


モール神父は、その家まで出かけていきました。


生まれたばかりの赤ん坊を祝福したあと、雪道
を通って教会に帰る途中に、モール神父は、初
めてのクリスマスのことを思い巡らしていました。


それは、今から2000年前に馬小屋で生まれたイ
エスの誕生です。 あの貧しい馬小屋にも、も
ちろんオンガンなどなかった。


でも、生まれた赤ん坊を祝福する星が輝き、
母親も父親も、羊飼いたちも、動物たちも、
みんな、喜びあっていたじゃないか。


道すがら、モール神父のなかで、イエスの誕生
の感動が言葉となってあふれてきました。


そしていつのまにか、数節の詩ができあがって
いたのです。


ただ、メロディーがありません。


モール神父は、何とかクリスマスのミサでそれ
を歌いたかったので、曲をつけてもらおうと、
友人の小学校教師フランツ・グルーバーの元に
急ぎました。


「フランツ、この新しい詞に曲をつけてほしい。
深夜のミサで歌おう。


オルガンがあろうとなかろうと構わない!ギ
ターの伴奏で歌おう!」


しかし、グルーバーは、自分はオルガニストで
あってギターはやらないし、作曲などなおさら
だと断りました。


でも、モール神父は引き下がりません。


「ギターコード三つぐらいは知っているだろう。
」 グルーバーがうなずくと、モール神父は続け
ました。


「じゃあ、三つくらいしかコードを使わない簡
単な曲を書いたらいいじゃないか。


今夜、僕たちは新しいキャロルを歌うんだ。」
そこで、グルーバーはモール神父の求めに応じ、
1時間もしない内にその曲を書き上げたのです。



※…美しい聖歌の誕生


その日の深夜のクリスマスのミサ。 できあがっ
た歌は、ギターの伴奏で、モール神父がテノー
ル、グルーバーがバスを担当し、二人の女性と
共に四重唱で歌われました。


その歌声は、星の輝く聖夜、アルプスの山なみ
にある聖堂に響き、村人たちを感動させました。



きよし この夜 星は光り
救いの御子(みこ)は まぶねの中に
眠りたもう いとやすく


きよし この夜 御告(みつ)げ受けし
牧人(まきびと)たちは 御子の御前(みまえ)に
ぬかずきぬ 畏(かしこ)みて


きよし この夜 御子の笑(え)みに
恵みの御世(みよ)の あしたの光
輝けり 朗(ほが)らかに
(訳詞 由木 康)



いま世界中で愛されている賛美歌「きよし
この夜」はこのようにして作られたのです。


わずか数時間でできた歌ですが、クリスマス
ソングとして、これほど世界中で広く親しま
れている歌は他にないでしょう。


考えてみると、オルガンが壊れるというアク
シデントがなければ、この歌は生まれていま
せんでした。


思わぬアクシデントがあったからこそ、この
歌が生まれたと言っていいと思います。


不慮の出来事にもめげず、クリスマスを皆と
ともに喜び祝いたいという気持ちが、この歌
を生んだのです。