貧者の一灯ブログ

マイペースで自己満足のブログを投稿しています。

貧者の一灯・番外編



















※…


いじめのターゲットが私以外の誰かに変わって
いた。子どもは飽きっぽい。標的はどの子にな
ったかすぐにわかった。


彼女は他校不良女子から目を付けられる不良の
代表。不思議なことに彼女とはなんだかウマが
あい、余され者同士仲良くなった。


ただ、下校後、彼女は他校女子と喧嘩してくる
とか、彼氏とシンナー吸ってくるとか、私には
全然わからない世界で過ごしていた。


彼女はそんな世界に私を一度も誘ったことはな
かったが、何でも話してくれたし、私も彼女に
は何でも話せた。


一緒に漫画を読みおしゃべり、友達と過ごすっ
てこんな楽しい時間なのかと思った。


そこに熱血担任先生が、今度は 「あいつと付き
合うのはよせ」 と言う。


学校一の不良と学校一の優等生の親友関係。


こんなのあまりない。彼女のお陰で学校に行け
るし、彼女は私を悪い道に誘わない。


私も彼女に干渉しない。私も彼女もお互いに何
かわかっている。いじめ女子軍団が解散しても
私と彼女の関係はずっと続いた。


彼女の生い立ちや、つらいことが自分と重なっ
たし、彼女もそう感じていた。私たちはまさに
仲間だった。


中三のある日、自分の親との行き詰った思いを
彼女に話すと、彼女は、 「ねえ、カバン潰し
てみる?」 と言った。


いつか 「もう重たい教科書入れないであなた
みたいにカバン潰してみたいな」 と言ったこと
を覚えていてくれた。


一週間後、カバンはカッコよく潰れて戻ってきた。
私は何だか晴れ着を手にしたようで嬉しかった。


彼女とそのカバンをソリにして雪の坂道をキャ
ーキャー笑いながら滑ったことを鮮明に思い出す。


私が大学に行ってもずっと親友のままだった。
私は大学生、彼女はキャバクラ嬢で一緒に暮ら
していたこともある。


彼女は私が心を許せた最初の親友。


彼女の人生は波乱万丈で、全身入れ墨の方と
一緒になって彼女自身も太ももに美しい刺青。


刺青は一緒にお風呂に入ると肌から浮き出てそ
れは美しかった。今でも彼女を大切に思う。





高校生になって習い事をやめ恋愛にのめりこんだ。 
母の期待を裏切った。


高校では私よりずっと勉強できる子、ピアノの
上手な子、破格のお嬢様はたくさんいた。


何だか、急に力が抜けた。頑張るのが嫌になった。


一年生の時に好きになった男子に毎日お弁当を
作り、初恋を釣ろうと思っていたが、告白して
見事に撃沈した。


うらぶれて美術部の庭で絵を描いていると毎日、
部室の屋根の上から自作のラブソングを歌って
私を口説く男が現れた。


失恋して心が弱っていたから簡単に恋に落ちた。
恋に落ちると成績も落ちた。高校生女子あるある。


彼は不良っぽく悪いことは率先して行うが、部
活のリーダーでもあった。なのに、修学旅行で
飲酒発覚、停学をくらった。


「彼女のくせに彼をしつけない」 と私を怒る
人もいた。でも、彼は人懐こくて憎めないキャ
ラだった。


「愛し合っているならセックスできるよね」 と
経験者の彼。デートのたびに勝負パンツを履い
てみたが怖くてその一線を越えるとかいうのが
できなかった。


そんな時、授業中に彼が友人に私の秘密を話
しているのを聞いた男子が、私に忠告してきた。


その男子、交際している彼女もいて自分のこと
でもないのに 「別れた方がいい、あなたは傷つ
けられている」 と心配してくれた。


ありがたかったけど悲しかった。


すぐに別れる決心はついた。もう大学受験が
目前だった。成績はガタ落ち、志望校に届く
成績ではなくなっていた。





そんな時に、『マザー・テレサあふれる愛』の
写真集の写真展覧会に、母が気分転換に連れて
行ってくれた。


そして一枚の写真の前に釘付けになった。それ
はインドの市街地の路地裏、ゴミ箱から取り出
されたミイラ化した乳児の写真だった。


雷に打たれたような衝撃。涙がこぼれて止まらず、
「こんな理不尽なことがあっていいのか」、 そ
して、 「私はインドに行ってマザーの手伝いが
したい、看護師になりたい!」 と強く思った。


その場で写真集を買い、サインもいただいた。


何としても看護師になる、インドに行く!目標
が決まった。 恋する勢いで猛勉強を始めた。そ
して目標だった大学に合格した。


大学でボランティア活動から学生運動へ、そし
て家出 大学では、寝たきり老人を訪問する大学
生ボランティア活動に参加し、土曜日、デート
ではなく在宅で寝たきりになってしまった老人
を訪問していた。


学童保育ボランティア班もあったが、私は実は
子どもは苦手だった。


寝たきり老人となって経過が長い方を毎週訪問
していた。後になって、『「寝たきり老人」の
いる国いない国』を読んで知ったが、私もその
時に、日本は傷病を負った老人を寝たきりにさ
せてしまう国と知った。


血の気の多かった若者の私は、すぐに社会改革
運動思想と共産主義について学ぶ活動にはまり、
社会改革を叫ぶシュプレヒコールの波に混じった。












※…
いつの間にか自分にきょうだいが生まれてい
たとわかったら、あなたならどう思うでしょ
うか。



“同じ敵をもつ仲間”と思い、同情すらして
いた父親に、実は前から女性がいて、子ども
までいたと知ったら。



ヒステリックな母親のもと、いつも親の顔色
をうかがいながら過ごしてきた芽衣さん(仮名)
は、大学生のときに異母きょうだいの存在を
知りました。



これまで20年あまり信じてきたものは何だっ
たのか? 「すべてが崩れた」ように感じら
れたといいます。



友人が多く、勉強もでき、数年前には新卒で
希望の仕事に就いた自身を「恵まれている」
と感じながらも、芽衣さんは「いつまでも暖
簾に腕
押ししているような感覚」だといいます。



今も、心に空いた穴はいまもふさがりません。





毎晩、リビングからは怒鳴り声が聞こえていま
した。両親の仲が悪くなったのは、芽衣さんが
小学校にあがった頃からだったと記憶しています。


芽衣さんは、双方から互いの悪口を聞かされて
育ちました。


「養っているのは俺だ」と父が言えば、「あな
たが言ったから会社を辞めたのに、なんでそん
なに偉そうなのか」と母が言い返す。


不仲の根っこには、結婚時に父が母に押しつけた
性別役割分業もあったようです。


「母も自分の非を認めない性格だし、父も家の
なかのことを取り仕切っている母親を認める姿
勢を見せることなく、ただお互いに罵りあって
いるので、なんだかなって思っていました。


言いたいことだけ言って解決に進まない、みた
いな喧嘩でした」


母親はつねに不機嫌でした。芽衣さんが自分の
思いどおりにならないと「なんでこんなことが
できないの?」と怒鳴り続け、ときには手をあ
げることも。


真冬なのに、薄着のまま1時間外に出されたとき
は、近所の人たちに心配されてちょっとした騒ぎ
になりました。


「ストレスのはけ口に私を使っている、みたい
な感じです。


姉もたぶん詰められたり、理不尽に怒られたり
していたと思うんですけれど、手をあげられて
いるのは見たことがない。


姉は割と気が強くて、たぶん私が一番おとなし
いからターゲットになっていました」


一方の父親は、母親の悪口は言うものの「芽衣
も大変だよな」という態度でした。


助けてくれることもなかったのですが、「父と
私は母が嫌い」という共通認識のもと、「なん
となく連帯していた」といいます。


父親がときどき家に帰らなくなったのは、芽衣
さんが中学生になった頃でした。


「残業で終電に間に合わないから、カプセル
ホテルに泊まる」と連絡を入れてくる父の言
葉をそのまま信じ、「すごく忙しいんだな」
と当時は思っていたそう。


高校時代、母からの八つ当たりが減ったのは、
祖父との同居がきっかけでした。


故郷で一人暮らししていた病気の父親を呼び寄
せてから、母があまり怒鳴らなくなったのです。


でも、芽衣さんの居心地がよくなったわけでは
ありませんでした。


みんなイライラしていて、一人の時間が息抜き
「家にいると、みんなイライラしているんです。


両親は仲が悪くて、母はパートの仕事と祖父の
介護で疲れているし、姉も当時は進路が決まら
なくてイライラしている。


だから家事は私もかなりやっていました。


友達はいたけど、学校は遠かったしあまり面白
くなくて。家にいても学校に行ってもしんどい、
みたいになっちゃって……」


高2になると、学校に行かない日が増えました。
朝、家を出ると隣駅のマックで時間をつぶし、
両親が出かけた頃に帰るのです。


祖父はこの頃入院していたため、芽衣さんは家
で一人に。その時間が「すごく息抜きだった」
といいます。


「高校をやめたい」と伝えたところ、母親は
「絶対にやめさせない」「やめるなら死ね」と
反対しました。


「こんなにいい学校に通わせてやっているの
に、やめるなんてバカじゃないか」と腹を立て、
なぜ彼女がそこまで思い詰めたのか耳を傾ける
ことはなかったそう。


退学せずに済んだのは、担任の先生のおかげだ
ったようです。


三者面談で家庭環境を話したところ、ひどく心
配した担任が「1週間学校を休んでいい。欠席
扱いにしないので、ゆっくりしてからまた考え
直して」と言ってくれたのです。


高3のとき「明らかに自分が仲のいい子しかいな
いクラス」になったのも、担任のはからいだっ

のでしょう。


「私の状況を把握してくれた、ということが大
きくて。近くに寄っては来ないけど、そういう、
ふんわりと優しい対応をしてくれたので。『学
校行くか』みたいになって、ときどきは休んで
ましたけど、一応ふつうに卒業はしました」


父親がついに家に帰らなくなったのは、大学1年
の秋でした。


母親との暮らしが限界だったのだろうと当時は
思っていたのですが、後でわかったところ、そ
れは不倫相手に子どもが生まれた時期でした。


でも当時はそんなことは思いもよらず、芽衣さ
んは父親と連絡を取り合い、ときどきご飯を食
べに行ったり、スポーツの試合の観戦に行った
りしていたそう。




大学4年の夏、母親から「ちょっと話がある」と
呼び出され、真剣な顔で見せられたのは父親
の戸籍の写しでした。


離婚調停を申し立てるために、母親が取り寄せ
たものです。そこには「認知」という文字とと
もに、知らない子どもの名前が書かれていました。


「『え?』みたいな感じです。


母は不倫には薄々気づいていたと思うんですけ
れど、子どもの存在は、母も知らなかったみた
いです」


このとき、もう一つ衝撃を受けたことがありまし
た。用紙に記載された子どもの名前が、芽衣さん
と一字違いの、一目できょうだいとわかるものだ
ったことです。


「嫌でしたね。子どもが生まれちゃって、そう
いうことになったのはどうしようもないとして
も、なんでそんな名前をつけたんだろうって。


私たちに言えない子どもに、こんなそっくりの
名前をつけて、どういうマインドなのかまった
く理解できない。


どういう気持ちで、この子の名前を呼んで暮ら
しているんだろう、というのが衝撃でした」


それはおそらく父親としては、いつか事実が露
呈したときのせめてもの罪滅ぼしというか、芽
衣さんに愛情を示したくての命名だったのでは
……と筆者は思うのですが。


以前取材で、やや似た話を聞いたからです。
でも芽衣さんは「それは絶対ない」とのこと。


不幸中の幸いだったのは、このときすでに、
芽衣さんの就職活動が終わっていたことでした。


原因ははっきりしないのですが、芽衣さんはそ
の後まもなく、外に出られなくなってしまった
からです。


「知ってからしばらくは何ともなかったんです
が、翌月くらいから急に肩が凝るし、挙動不審
になっちゃって。


電車に乗ると、周りの人がみんな自分より優れ
て見えて、乗っている人全員が私のことをバカ
にしているように思えてしまう。


人としゃべっていても、相手が自分のコンプレ
ックスを見ている、みたいに感じる。とにかく
怖くなっちゃって、バイトも行けなくなり、内
定式があった秋口まで本当に引きこもっていま
した」


おそらく父親のことで受けた衝撃が大きすぎて、
体調に影響が出たのではないか、といまでは思
っているそう。


父親への怒りが大きすぎたのでは?と尋ねたと
ころ、怒りとは少し違う感情だったといいます。


「腹が立つというか、(異母きょうだいのこと
を)知るまでの20年間、ずっと父のことはなん
となく『同じ敵を持つ仲間だ』みたいな感情だ
ったので、その全体が崩れてしまった。


異母きょうだいがいた事実にショックを受けた
というよりは、父がそんな巨大なうそをついて
いたことに対する悲しい気持ち。


家族ってなんだろう? 信じてたものってなん
だろう? という感じです」





その後、父親と会ったのは一度きりです。


就職が決まったお祝いで、いっしょに食事に行
ったのですが、芽衣さんは何も知らないふりを
しつつ「この人はいま、どういう感情で自分と
会っているんだろう?」と、ずっと考えてしま
ったそう。


「(父の不倫を知っても)母への同情はまった
くないです。私が小さい頃から父は離婚したが
っていたのに、母は子どもをタテに離婚に応じ
なかったですし、


何より私にずっときつく当たってきたことを今
でも許せていないので。若干自業自得、と言っ
たらひどいですが、『もっと早めに手を打って
おけばよかったじゃん』とは思います」


母親とも、就職して家を出てからは一度も会っ
ていません。しつこく連絡を受けたこともあり
ましたが、「もう連絡をとるつもりはないので、
放っておいてほしい」とはっきり伝えてからは
「実害はない」といいます。


「ただ、最近また電話がかかってきて。『ずっ
と追いかけられるのか』みたいな気持ちもあり
ます。


『母が死ぬまで、怯えて暮らさなきゃいけない
のかな』と。母に対しては『かかわらないでほ
しい』っていう気持ちが強いですね」


父に対しては「別にどうでもいい」とのこと。


かかわってもいい? と筆者が尋ねると、否定
はしなかったものの、 「でも、いまさらどうか
かわるんですかね。謝ってほしいとは、まったく
思っていないです。


ただ、一生罪悪感を抱えて生きてほしいな、と
は思います」


芽衣さんが謝ってほしいと思わなくても、父親
は芽衣さんと姉に、全身全霊で謝らなければな
らないだろうと思います。


芽衣さんの心はいまも満たされることがありませ
ん。 「行きたい学校にも行けたし、就活も第一
希望に運よく決まって、友達もたくさんいるし、
いろいろ『恵まれてるな』とは思うんですよね。


自分で言うのも変ですが、苦労していろいろ手に
入れてきたと思う。 でも、実感がないんです。


自分が本当に欲しいものが、いつまでも手に入れ
られていない感じがする。


失敗しても誰かが見てくれる、みたいなものが
私はないから、たぶん安心していないんですよね」


小さい頃から人の顔色をうかがって生きてきたの
で、「自分がこういうことをしたら嫌われるだろ
うか」とつねに考えてしまう癖も抜けません。


いつも気を張っているので、リラックスした気持
ちでやりたいことに飛び込んでいける人が、すご
くうらやましいのだそう。





あまりポジティブに「結婚したい」「子どもが
欲しい」と思えないことも、これまで体験して
きたことの影響です。


結婚したい気持ちもあるものの、式に親を呼び
たくないし、もし結婚しても子どもは欲しくな
い気がする、といいます。


「虐待されてきた子どもは将来虐待してしまう、
みたいな言説があるじゃないですか。あれを見
るたびに傷つきますね。


わからんでもないなとは思うんですけれど。


母の両親も離婚していて、母もたぶん『そうは
ならないぞ』と思って、結婚して子どもを育て
てきたと思うんですけれど、


私はその被害にあったわけで」 虐待されて育っ
て、実際に虐待してしまう人もいれば、しない
人も少なからずいる。


ちょっとほっとしたのが、お姉さんについての
話です。


「私の場合、似た気持ちをずっと共有してきた
姉がいたことはよかったと思います。姉がいな
かったら本当に、いま生きていないと思う。


子どもの頃は仲良くなかったんですが、大人に
なってからはめちゃくちゃ仲が良くて、いまも
毎日連絡を取っています」


ただし、姉にもいま芽衣さんが住んでいる場所
は教えていません。


姉はいまでも母とよく会っているので、姉から
母に芽衣さんの居場所が伝わることを避けたい
からです。


傍目に恵まれた人生を送っていても、芽衣さん
自身の気持ちが晴れないことには意味がない。


もどかしいな。筆者のそんな思いを、彼女は
察したのでしょう。


「友達にも、なんで芽衣はそんなに自信ないの? 
って言われます。もっと調子に乗ってもいいじ
ゃんって」


そう、調子に乗ってくれたらどんなにいいか。
本当にそう思います。


取材を終えて店を出ると、陽は少し傾いていま
した。楽しそうでもなく、ふさぎこむ風でもなく、
芽衣さんは静かに東京の街を歩いていきました。